2011/03/15 日記 「震災(2)」
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高校の坂道、ここを登るのは何年ぶりだろうか。
真っ暗だけどS川氏が懐中電灯を持っていたので助かった。
校庭で焚き火、体育館にはストーブ。余震がきても逃げられるようドアは開けているため思ったより寒い。震災時は授業中だっただろう高校生たちがいっぱいいた。
飲料水の配布があってペットボトル1本いただく。自分は寒いのは平気だけど足の冷え性がキツイのでS川氏とストーブ付近で過ごす。市側にも情報が入ってこない模様。携帯ネットだけが頼り。福島原発のニュースを知る。何かあったらもう人災だ。
こういう時は体が備えて空腹にならないのかもしれない。水にも手をつけず過ごす。昼に行きつけのレストランでちゃんと食べておいて良かった。
もともと携帯バッテリーは切れそうで避難時に2個目に交換したけど、それもいよいよ切れて最後の3個目に突入。このまま電気が戻らなかったら充電どうするか。使用を控えるしかなさそう。
0時を回って不安な夜が続く。個人ホームページに繋がらない。サーバー会社はお隣の日立市にあるため、やはり停電だろうと予想できる。ツイッターにその旨を記載。
川が決壊して国道が水に浸かった情報が。たぶん津波のせいかと思われる。
03/12土曜 朝6時
結局、徹夜で朝を迎える。大津波警報が解除されてないけどS川さんは帰宅するとのこと。非常食もらってから自分も戻るかと思ったけど、数に限りあるだろうし自分も帰宅して、とにかく寝ることに。
自宅を再確認。風呂の水はいっぱいあったはずが、半分になっていて、しかも風呂桶が大きく移動。戻そうと思ったけどとても無理。地震の力は恐ろしい限りである。トイレの床が濡れていた。おそらく揺れた際に貯水タンクからなのか。
食料の備蓄は無いに等しい。レンジで暖めるご飯が3杯分とお茶漬けのり&お茶セット。それも電気が無い現状で食べられるのだろうか。電気の切れた冷蔵庫にはお得意先から頂いた缶コーヒーが数個。苦手なので気が向いたときだけ消費だったので貯まってしまったやつ。こういうときは心強い。
寝て気が付いたらお昼を過ぎていた。暗くなる前に懐中電灯を用意する。電池(充電ニッカド)はまだ大丈夫だ。模型店でミニ四駆やってたせいで電池の心配はない。
17時を過ぎて暗くなってきた。1人暮らしの身ゆえこのままここにいても不安である。毎週土曜のいまごろは市内某所で友人たちが集まっているのを思い出し、そこに車で向かってみる。
けっきょく友人たちは来なかったが、お向かいの消防団に団員たちが焚き火で集まっていた。友人の1人をはじめ、かつてこの近所に自分は住んでいたため知人がいっぱい。行き着けのレストラン店主もそこに。
消防団詰め所にはガソリン発電機が置いてあって明るかった。停電でサイレンは鳴らせないそうだ。やぐらも鐘も今はない。火事が起きても水道が止まっているため消化は難しいとのこと。
消防団は近所の商店主で構成されることもあり、持ち寄って料理を作っていて、そこでカレーをご馳走になる。きっと一生忘れないカレーになった。
発電機で携帯を充電してもらう。最後のバッテリーがぎりぎりで蘇った。しかし電波が圏外になること多し。考えてみると基地局も停電しててバッテリー運用のはず。いつまで持つだろうか。
電話は使えるが、こちらからはかけられないそうである。どういうことだろか。
避難所よりも、消防団のほうが正確な情報が入りそうである。いろいろ状況を聞いて安心したので帰宅する。ガソリンが不安なので車はもう使わないことに。
とにかくぐっすり寝れた。余震でたまに起こされるのが不安ではあるが。
つづく
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